こんにちはMayです。
今回は別のブログ(現在は閉鎖)で書いた記事をリライトして掲載したいと思います。
これはわたしの友人が長年勤めていた会社を辞めたときのことを書いた内容です。
会社を辞めたくても辞められない社会人心理を友人から知ることができたときでした。
なお、多少のリライトをしていますが5年ほど前の記事です。文体は当時のまま「〜だ、〜である」調にしています。
だれのための労働か

友人が10年以上勤めた会社から転職した。
先日、その友人と、転職後はじめて会った。
その日の午前中に用事をすませたわたしは急にその友人に連絡をした。
いつもならあらかじめ予定を決めて会う友人なのだが、その日は急だった。
友人は都合よく予定がなかったらしく、連絡後1時間で落ち合うことができた。
ランチをしたあと、コーヒーを飲みながら、いつものように他愛のない話をした。
友人が転職後だったこともあり、新しい職場。仕事のことを訊いた。
そのとき、友人の話す言葉。話の訊き方。そして彼の雰囲気が、これまでのものと違っていることに気がついた。
うまくたとえられないのだが、背負っていた重い荷をおろしたような力の抜けた感じで、さっぱりしたような、そんな雰囲気だった。
会社のために働く
およそ10年、友人は大手企業に勤めていた。誰が聞いていも名前は知っている企業だ。
同期よりも一歩も二歩も先を進み、上司からは頼られ、部下からは信頼厚い、まさに出世街道まっしぐらという人間だった。
その立場を手に入れることと引き換えに、友人は馬車馬のように働いた。長時間残業をし、休日出勤も当たり前だった。
会社が求める無理難題にも、友人は自らのスキルを磨き解決した。
どうしても困難と思われることは一定部分で線を引き、最低限出来る範囲のことを行った。
上司ですらできないこと。やったことがないことを友人はこなした。
そんな友人を、会社は働かせるだけ働かせた。
友人は自分のため、そして会社のために働いた。
当時の友人はそれで満足していたのかもしれない。
しかしわたしからすれば、そんな働き方は考えられない。
言葉は悪いかもしれないが、
使えるものはすり減るまで使っておけ
といった印象しかない。
会社員であれば会社の意向に従うしかない。
それは間違いではないだろうが、会社員の前にだれもが一人の人間である。
数年前まで、わたしはその友人と頻繁に会っていたが、しだいに会う回数も減り、数カ月に1回会えばいいほうになっていた。
会う回数が減ったのは、友人が忙しいこともあったのかもしれないが、わたしが少し避けていた部分もある。
その大きな要因は、友人と昔ほど会話のキャッチボールができなくなっていたことだ。
時折会っても、ランチとコーヒーを飲んでわかれる。
くだらない、どうでもいいような話題でも会話が続かない。
そんなことが多くなっていた。
友人からは、彼が思い描く将来設計や、夢を聞いていたが、正直な感想としてわたしは、
「難しいのではないか」
と思った。
少なくとも今の会社に勤めているかぎり、彼はそのままその会社に骨を埋めるのではないかと感じていた。。
それほどまでにわたしから見れば、彼はどっぷりと会社に浸かっている状態に思えた。
その友人からある日、転職するつもりだと聞かされたとき、にわかに信じられなかった。
信じろと言われても、簡単に信じることがきなかった。
彼の中に転職の選択肢があったことにわたしは驚いた。
友人の気持ちに変化を与えたのがなんだったのかわからない。
ただ、わたしは勝手ながら大いに賛成した。
全人格労働

転職した友人とコーヒーを飲んでいたとき、彼は興味深い話をしてくれた。
彼の受け持っていた部署は、さまざまな面で重労働だった。
毎日ほぼ終電近くまで残業という労働時間と、精神的に追いつめられる業務。
それでも働かなければならない。
その結果、何人もの人が鬱になり休職している職場だった。
「病気になってまで我慢しないで、さっさと辞めちゃえばいいじゃないか」
わたしはそう言った。
病にかかってまで会社で働き続ける意味はない。
わたしはそう考えている。
やりたいことを仕事にして、それをやっていても苦痛ではなく、結果、過労で倒れてしまうことと、精神的に追いつめられ、夜寝ることも、朝起きることも苦痛な状態で、結果、倒れること。
同じ倒れるでも、そこには大きな違いがある。
友人はこう言った。
辞めたくても、怖くて辞められないんだよ
《辞めるのが怖い?》
友人の話はこうだ。
学校を出て、
厳しい就職戦線に勝って、
名前が知られた一流企業に勤めて、
取引会社の人間からはちやほやされ、
神様のように崇められて、
それなりの給料をもらって、
いいポストにつく。
そんなことを経験し続ければ、たとえ業務で苦痛なことがあったとしても、今の地位を捨ててまで転職なんて考えない。考えられない。
その結果、辞めることが怖くなる。
もし転職しても今の水準の生活を保てるほどの給与をもらえるだろうか。
転職した会社でうまくいくだろうか。
もしかして転職した会社のほうが今よりもヒドいかもしれない。
そうなると転職なんて選択肢はなくなる。このまま我慢したほうがいい。
そういう精神状態になるようだ。
経済的なことはもちろん、一流企業で勤めている見栄やプライドも、行動を邪魔するのかもしれない。
友人は転職をして、その不安は一体なんだったのか。無駄な心配だったと言った。
プライドは簡単に傷つかない
わたしは好き放題に生きてきたので友人とは雲泥の差の人生である。
今の日本社会でわたしの生き方はまったくと言っていいほど受け入れられないかもしれない。
ろくにサラリーマン経験もない。
何かを成し遂げた経験もない。
思いつきのように26歳で大学に入り、30歳で大卒の資格を手にしても、定職にもつけなかった。
なおかつ奨学金という借金も背負っている。
これは誰が見ても最悪である。
典型的な「負け組」である(わたくしは負け組だとは思っていないが周囲からの視線は冷たい)。
「くやしくないか」
と言われ、
「くやしくない」
と言えばウソになる。
人間だからくやしいときもある。
まだ20代のときなら、プライド云々と言って、かっこつけていたときもあった。
そう思う時期はだれにでもあるだろう。
ただ、今だから言えるのだが、はっきり言えば、人間のプライドなんてそう簡単に傷はつかない。
プライドがあるから頭を下げられない、なんて今のわたしにはない。
やらなきゃいけないのであれば、一日中トイレ掃除でもゴミ拾いでもできる。
実際、以前勤めていた舞台の仕事では「下足番」という、役者の履物を朝から夜まで出し入れする業務もしていた。
最初は、
「ふざけるな!」
と思い、役者の履物をぞんざいに扱っていたが、いつしか、
「これも人生か」
と思うようになっていた。
頭を下げることでプライドが傷つくというなら、そんなものはプライドでもなんでもない。
頭を下げることもできないのなら、あなたのプライドはあまりにも小さい。
自分自身のためならなんでもする。
トイレ掃除でも下足番でも。
それが本当のプライドだ。
プライドをも捨てるプライドを持ったほうがいい。
会社を辞める勇気

一昔前なら会社は社員を一生面倒見てくれたかもしれない。
勤め続ければ収入も右肩上がりの時代もあっただろう。
しかしもはやそんな時代ではない。
リストラは当たり前。
収入も右肩上がりどころか、よくて現状維持。
悪ければリストラの対象である。
そのような世の中で、馬車馬のように会社のために働く意味はあるのだろうか。
自分がおかしくなるまで働くことが何に繋がるのか。
あなたが病気になり会社からいなくなっても会社は変わらずあり続ける。
しかしあなたが働けなくなれば、あなたの人生は変わってしまうだろう。
人生の選択肢として、会社を辞める勇気も持っていたほうがいい。
勤め人が若者に説教たれるのは、所詮バックに会社がついているからである。
そのバックがなく、裸一貫になったときに自分の力で生きていけるか。
100円でも200円でも自分が作り出したもので稼ぐことができるか。
いつどうなってもいいように準備だけはしておいたほうがいい。